第2回 自己評価と他人とのあわいに生きる難しさ─シルヴィア・プラス『ベル・ジャー』(鯨井久志)

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執筆:鯨井 久志(精神科医/翻訳者/書評家)  

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 人の目を気にせず生きていくことはできない。他人と暮らしていくのが社会である以上、他人と関わりを持たずには生きていけないからだ。人からの評価を自分のなかにフィードバックし、常に修正を図りながら、わたしたちは社会の一員として折り合いをつけている。仮にそれがなくなってしまえば、他者との交流はなくなり、決して傷つくことはなくなるであろう。だがしかし、きっと進歩も変化も何もかもがなくなってしまう。アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の〈人類補完計画〉で最終的に描かれるヴィジョン(ただし、それは回避されるのだが)はそういうものだ。
 とはいえ、少々先走ってしまったように、他人の評価は時として傷つきを生む。自分が予想していたよりも評価が低ければ当然落胆するし、より直接的にネガティヴな意見として暴力的に投げかけられることもある。他者が他者である以上、自分のなかにはないものである以上、それは避けがたいことである。むしろ「他者」の定義に近づいていると言ってもよい。傷つきを極度に回避すると、それはそれで軋轢を生む。人の視線が恐怖となり、一挙手一投足にかかるハードルが上がり、何もできなくなってしまう。あるいは逆に、まったく気にしなくなると、それはそれで社会、共同体としても扱いに困る存在となり、結局は排斥への動きを増幅してしまう。
 そういうわけで、他者との関わり合いというのは、人類社会の永遠のテーマとも言える。この釣り合いの上で何とか成り立っているのが自分という存在であり、他者は他者でそのバランスを何とか成立しようとしており、その集合体が社会である……と考えると、この世界そのものが奇妙に脆弱な基盤の上に成り立っているような、頼りないような気分になる。

 今回扱う『ベル・ジャー』は、そんな他者からの評価が大きなモチーフとなって立ち現れる作品である。

『ベル・ジャー』シルヴィア・プラス 著
小澤身和子 訳、晶文社、2024
(The Bell Jar by Sylvia Plath, 1963)

 舞台は1953年のアメリカ。主人公であるエスターは郊外出身の19歳だが、その文才を認められ、雑誌編集者のインターンシップに選ばれてニューヨークを訪れる。ニューヨークの華々しい世界に足を踏み入れ、都会でさらなる成功(彼女は詩人志望である)を掴むべく奔走するのだが、結局は望む評価を得られず、精神的な不調に陥ってしまう。男性との交際もうまくいかず、母親との関係も悪化し、とうとう彼女は自殺未遂を図り、精神病棟への入院を余儀なくされる。

 エスターの身に常につきまとうのは、自分の自己評価ではなく、他者からの評価、ジャッジするまなざしだ。都会で詩人として活躍するためには、おのれの書くもので評価を得なければならない。これまで学業では好成績を収めてきたエスターだが、都会に出たからには、周囲の女性たちのように、男性との恋愛経験を積まなければならないのではないか、という一種の強迫観念的な外圧を感じている。だがその一方で、これまで通りの優等生的な振る舞いを周囲から期待されているところもあり(決して裕福ではない家庭出身のエスターは、成功を収めた小説家が運営している奨学金をもらっている立場にある)、特に母親からは、良き母であり妻である未来を望まれている。
 時代は1950年代、現代のような男女の価値観がある程度広まっている社会とは程遠く、関わり合う男性たちも、一見進歩的な価値観をもっているように見えても、関係を深めていくと、エスターのことを一個人として見るよりは、「若くて頭のいい女」とジャッジしたうえで関わっているということが、詩的で繊細な感受性を持つエスターには、よりひしひしと、逃れられないものとして感じられてしまう。ここに彼女の悲劇がある。

 図太く生きられる人間、「自分は自分であるし、自分の書くものも自分の書くもの」、「自分がよければそれでいい、人生は自分のもので親のものじゃない」ときっぱりと言い切れる人間であれば、エスターの迷いは生じなかったはずだ。だが、そこで逡巡し、他者との関わり合いのなかで、過剰に自己へのフィードバックを課してしまうところにこそ、彼女の文才や詩情はきっと宿っているのだろうし、そこはトレードオフの関係にある。
 だからこそ、世間からの外圧との釣り合い……言ってしまえば「社会適応」に、ふつうの人よりも困難を抱えてしまう。タイトルになっている「ベル・ジャー」(bell jar)とは、繊細なものを保護したり、展示したりするときに使う釣り鐘状のガラス容器のことである。世間という外圧から身を護り、自己という他者には絶対に侵されてはいけない最終防衛ラインを保つ存在でありつつも、脆弱で粗末な扱いをすればすぐに破れてしまいかねないもの……。外からの視線に揺れ動かされつつも、内から湧く衝動とのバランスがいったん崩れてしまえば、こなごなに砕け散って、元には戻らない儚い存在。まさに作中で描かれるエスターの人格そのものといっていい、すばらしく詩的な比喩である。

 精神医学的には、エスターが入院したあとで受ける治療も見逃せない。いまでは使われなくなったインシュリンショック療法(意図的にインシュリンを投与し、低血糖状態に陥らせることで抑うつや統合失調症の治療に結びつけようとする治療法)や、こちらはいまでも臨床で用いられている電気けいれん療法(ECT;ただし、現在は麻酔を導入し、必要以上のけいれんを生じさせないmECTが使われている)といった治療を、実際に受けた立場の視点から、そして詩人の視点から描いているのである。1952年のクロルプロマジンの導入以来、精神医学の治療は大きく様変わりしたが、本書にはその前後の様子があざやかにに写し取られている。エドワード・ショーターとデイヴィッド・ヒーリーによる『〈電気ショック〉の時代』(みすず書房、2018、原著、2007)によると、本作はECTを受けてもなお自殺してしまったヘミングウェイ、電気ショックとロボトミーの恐怖をまざまざと描き、ジャック・ニコルソンの怪演によって世界中にそのショックを伝えたケン・キージーの『カッコーの巣の上で』(原著、1962、映画版の公開は1975年)と並んで、ECTに対する世間の忌避感を増幅するのに一役買ったという。

 先ほど「実際に」と書いたが、本作は作者シルヴィア・プラス(1932~1963)の実体験とも強く結びついた自伝的要素の高い作品である。プラス自身、若き天才女性詩人として現在では高く評価され、抑うつが生じて入院した経験を持つ。そして本作をより伝説的なものとしたのは、その30歳という年齢での自殺である。『ベル・ジャー』はエスターが退院するかどうか、という場面で終わっているものの(第1章の記述によれば、どうやら無事退院できたようだ)、プラス自身はその後結婚し、子を2人もうけたのち、自宅のオーブンに頭を突っ込んで自殺してしまった。
 私小説的であり、エスター=プラスといった視線を避けて読むことは難しい作品である以上、その悲劇的な死を「描かれなかった結末」として視野に入れずにはいられない。だが、それは個人の生をストーリー的に、ある種の枠にはめ矮小化したうえで、評価を下す行為なのではないか? それをエスターは、プラスはどこまで望んでいるのだろうか? ……という疑問は、どうしても残る。精神病跡学的アプローチとその取り扱う手つきの問題、といった現代にもなお残る論点を与えてくれるという点でも、精神医学的には避けて通れない一作と言えるだろう。

次回につづく)※2026年7月中旬公開


鯨井 久志(くじらい ひさし)
1996年大阪府生まれ。精神科医。日本SF作家クラブ所属。海外SF・海外文学を中心に数多くの書評を執筆。2023年にはジョン・スラデックの『チク・タク・チク・タク…』の翻訳を手がけ、同書は早川書房による「SFが読みたい! 2024年版」にて海外部門1位となった。また、2025年にはケイトリン・R・キアナン『溺れる少女』の訳書を河出書房新社より刊行。趣味はお笑いライブ鑑賞。


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