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執筆:鯨井 久志(精神科医/翻訳者/書評家)
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人の目を気にせず生きていくことはできない。他人と暮らしていくのが社会である以上、他人と関わりを持たずには生きていけないからだ。人からの評価を自分のなかにフィードバックし、常に修正を図りながら、わたしたちは社会の一員として折り合いをつけている。仮にそれがなくなってしまえば、他者との交流はなくなり、決して傷つくことはなくなるであろう。だがしかし、きっと進歩も変化も何もかもがなくなってしまう。アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の〈人類補完計画〉で最終的に描かれるヴィジョン(ただし、それは回避されるのだが)はそういうものだ。
とはいえ、少々先走ってしまったように、他人の評価は時として傷つきを生む。自分が予想していたよりも評価が低ければ当然落胆するし、より直接的にネガティヴな意見として暴力的に投げかけられることもある。他者が他者である以上、自分のなかにはないものである以上、それは避けがたいことである。むしろ「他者」の定義に近づいていると言ってもよい。傷つきを極度に回避すると、それはそれで軋轢を生む。人の視線が恐怖となり、一挙手一投足にかかるハードルが上がり、何もできなくなってしまう。あるいは逆に、まったく気にしなくなると、それはそれで社会、共同体としても扱いに困る存在となり、結局は排斥への動きを増幅してしまう。
そういうわけで、他者との関わり合いというのは、人類社会の永遠のテーマとも言える。この釣り合いの上で何とか成り立っているのが自分という存在であり、他者は他者でそのバランスを何とか成立しようとしており、その集合体が社会である……と考えると、この世界そのものが奇妙に脆弱な基盤の上に成り立っているような、頼りないような気分になる。
今回扱う『ベル・ジャー』は、そんな他者からの評価が大きなモチーフとなって立ち現れる作品である。
『ベル・ジャー』シルヴィア・プラス 著
小澤身和子 訳、晶文社、2024
(The Bell Jar by Sylvia Plath, 1963)