第1回 出口のない不安と焦燥―アンナ・カヴァン『アサイラム・ピース』(鯨井久志)

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執筆:鯨井 久志(精神科医/翻訳者/書評家)  

 なぜ本を読むのか、と問われると、よくわからない、と答えるほかない。
  駆け出しとはいえ精神科医として診療にたずさわる一方で、本の書評を書いたり、英語の小説を翻訳したりしている。とはいえ、仕事の内容と本の中身が必ずしも重なり合うわけではない。例えば、管理職に昇進したサラリーマンがマネジメントの本を読んだり、自炊をはじめた大学生がレシピ本を手に取るのとは訳が違う。こういう場合は、本を読むという行為の目的がはっきりしている。本を読み、その内容から知見を得る。ノウハウを学ぶ。それを実際の行動に活用する。こうした流れが明らかである。
 だが、自分の場合はそうではない。本を読んだからといって、いい医者になれるわけではない。医学書を読みふけっているのならまた話は別だが、自分が読むのはもっぱら小説であり、それもどちらかというと“珍妙”と分類されるものを好む。
 とはいえ、読んできた本の数々が、自分にとって無意味かと問われると、やはりそうではない。費やしてきた金額と時間がもたらす自己弁護的な要素も入り混じっているのかもしれないが、そうはいっても、何やかんやでいろいろな事どもを活字から得てきたのは、どうにも間違いないことのように思える。
 言うなれば、実用的な読書とは栄養ドリンクであり、エナジードリンクなのだ。即効性があり、能力をブーストしてくれるものの、それだけを摂取して生きていくことはできない。
 この連載では、自分が読んできた本の中から、特に医療に携わる人びとにぜひ一読してほしい本を取り上げていく。そうした本は決して即効性があるわけではない。それがお望みなら、教科書や自己啓発本コーナーに向かえばよい。ただし、実用的な本では得られない何か、ある種の効力を得るためには、多少遠回りにはなるかもしれないけれど、そうではない本を読むことが必要になってくるのも、また事実である。
 特に、医療というのは対人職であり、対人関係には相手の心情を把握する過程が少なからず存在する。そうした機微を察知するには、むろん実践を重ねることも重要だが、優れた文学作品を読むこともまた、一助になると思われる。無味乾燥な教科書的記述を通すよりも、瑞々しく繊細な感性のほとばしる小説を読むほうが、かえってわかりよいこともある。
 この連載を通して、そうした「ある種の遠回り」としての読書を好むひとが一人でも増えんことを、願ってやまない。

 アンナ・カヴァンによる短編集『アサイラム・ピース』(山田和子訳、ちくま文庫)の全体に通底するのは、ある種の圧迫感、途方に暮れた感覚、もう手遅れなのではないかという焦燥である。 
 前半の数編は、一人称で描かれる。例えば「敵」では、語り手は“この世界のどこか”にいるという敵の存在について、淡々と描写していく。なぜ敵が敵意を向けてくるのかはわからない。自分の身に覚えはない。だが相手は自分の一挙手一投足を知っており、自分の身を滅ぼすまでその攻撃をやめないと語り手は確信している。
 明らかに病的な妄想と言ってよい描写ではあるが、その巧みな筆さばきによって、その途方もなさ、逃れるすべのなさ、閉塞感が読み手にひしひしと伝わってくる。

アサイラム・ピース
アンナ・カヴァン 著、山田和子 訳、ちくま文庫、2019
(ASYLUM PIECE and Other Stories by Annna Kavan, 1940)

 また別の短編「鳥」では、不条理な出来事に巻き込まれ、すっかり抑うつに陥ってしまった語り手が、窓の外にいる二羽の鳥を見て、その美しさに感銘を受ける。だが同じ風景を見ているはずのメイドはまったくの無反応で、本当に同じものを見ているのかと語り手は疑問に思う。そして、ひょっとしたらそれは、あまりにも救いのない状況に自分が偽りの希望を見出しているだけなのではないか、とふたたび突き放されたような感覚を抱く。
 「不満の表明」「いまひとつの失敗」では、事態の解決の助言をしてくれる“D”という名の“アドバイザー”と面会するようすが描かれる。ここでも語り手は問題を抱えていて、そこからの救いを求めて面会を重ねるのだが、アドバイザーの些細な所作が不安を高め、何らかの決断の期日が目前に迫るなか、語り手は「あらゆるものが変化したように思え」、「何か神秘的な形で、私が世界の中心になったかのよう」な感覚に陥る。そして周囲の目や窓、照明すべてが自分に注がれており、逃げ場はないのだという思いを確信へと変える。
 ここまで来れば察せられる通り、本書はある種の精神的な危機と、それによる精神の破綻にいたるまでの経過を描いたものと言える。

 そして中盤、精神科病院を舞台にした連作中編「アサイラム・ピース」に至って、それはまた様相を変える。ここでは三人称視点から、郊外の閉鎖病棟に入院している人びとのようすが描かれる。湖のそばの十八世紀の館のような病院だが、そこでの生活は決して華やかなものではない。ここに連れてきたパートナーのことを想いながら、日々を閉ざされた空間の中で過ごす閉塞感が、冷え冷えとした筆致で描かれていく。医者は休息がいまいちど必要だと説き、面会に来たパートナーも、決してもとの家には戻してくれない。自分ではどうすることもできない状況に置かれ、なすすべなく存在することしかできない無力感と絶望とが、この中編には充満している。 

 そして最後の二編、「終わりはもうそこに」「終わりはない」ではふたたび一人称に戻り、前者では“判決”を伝える通知が届いたのちの苦しみと別れが、後者ではどこかの狭い部屋の窓辺に座って“敵”がその本意を遂げたことが示唆される。つまり、本書の構成は、精神的な何らかの発病→入院→入院後の絶望を、少々の隠喩をともないつつ、順を追って描くというかたちになっているのだ。 
 「終わりはない」で描かれる結末は痛切である。結局、入院させられたと思しき語り手だが、“敵”の監視は続いている。結局のところ、“敵”とは自分の頭のなかに存在するのであって、そこから逃れうる術などないのだ、と語り手は思う。だが、そう思ったところで、決して状況は変わらない。より深い絶望が訪れるだけだ。鉄格子も鍵もないにもかかわらず、語り手はどこからも逃れられない思いをいや増して、この小説は幕を閉じる。

 作者のアンナ・カヴァン自身、幼少期から不安定な精神状態の日々を送っており、結婚生活の破綻などを機にヘロイン中毒となり、入院も経験している(そのようすは、別の短編集『ジュリアとバズーカ』(千葉薫訳、文遊社)に影を落としている。表題作の“バズーカ”とはすなわち、ヘロインを打つ注射のことである)。終生ヘロインが手放せず、美しい終末小説として名高い『氷』(山田和子訳、ちくま文庫)を発表した翌年の1968年、ロンドンの自宅でベッドに横たわったまま死んでいるのが発見された。そのかたわらには、ヘロインの注射器があったという。
 本書に見られる猛烈な不安、焦燥、そして閉塞感は、読む側にもひしひしと伝わってくる。もはやそれは痛みであり、苦しみでもある。
 だが、アルゼンチンの小説家フリオ・コルタサルが、「創作行為は一種の悪魔祓いである」と語ったように、カヴァンにとっても、創作することで自らの抑うつを何とか制御しようという意図があったのではないか、そんな気がさせられる。悪魔を自らの頭の中だけの存在にするのではなく、文字にすることで封じ込める、そんな狙いがあったのかもしれない。とはいえその悪魔は強力で、活字になったことで、カヴァンだけではなく世界中の読み手たちにも、その力を及ぼすようになった、とも言えるのだが。

 その悪魔にみずからも乗っ取られてしまってはいけないけれども、そのようすを観察し、学ぶことも、医療者には必要だろう。中世におけるエクソシストの末裔たる精神科医には、むろんのことだ。おのれの“敵”を知る、という意味でも一読をおすすめしたい一冊である。

次回につづく)※2026年6月中旬公開


鯨井 久志(くじらい ひさし)
1996年大阪府生まれ。精神科医。日本SF作家クラブ所属。海外SF・海外文学を中心に数多くの書評を執筆。2023年にはジョン・スラデックの『チク・タク・チク・タク…』の翻訳を手がけ、同書は早川書房による「SFが読みたい! 2024年版」にて海外部門1位となった。また、2025年にはケイトリン・R・キアナン『溺れる少女』の訳書を河出書房新社より刊行。趣味はお笑いライブ鑑賞。


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