本連載では2012年1月から2014年4月にかけて医学書院の電子ジャーナルサイト「MedicalFinder」に掲載されたエッセイ『内科医の道』を復刻掲載します。さまざま困難を乗り越えて道を切り拓いてきた先達たちが贈る熱いメッセージは,時を経てもその価値は変わりません。内科医人生の道しるべとなる珠玉のエッセイを堪能ください(注:断り書きがない場合,執筆内容,所属などは初出時のものです)
朝比奈 崇介(執筆時:朝比奈クリニック)
初出日:2012/02/24
大昔,ある病院で医員になった頃なので,もう20年ほど昔の話になる。関連のクリニックの糖尿病専門外来を担当していた。40歳くらいの男性の患者だっただろうか,HbA1c 11%台とえらく悪いデータが続いているカルテが回って来たので,どんな患者だろうと呼び入れた。ムスッとして私の前に座っていたので,自己紹介や時候の挨拶などをして座を和ませようとしたが,あまり話に乗ってこない。彼が自己血糖測定のノートを突き出したのでそれを受け取ると,1日3回の血糖値でノートがびっしり埋まっている。HbA1c 11%なのでさぞや悪いデータだろうなと思ったのだが,100〜120mg/dLと非常に良好な血糖が並んでいるのだ。不思議に思い彼に「インスリンはちゃんと指示通りに打っているのか」と問うたところ,「ちゃんと打っている」と話した。しかも食事記録を見せてもらったところ,ほとんど指示カロリーの通りで,運動の話を聞いても毎日ウォーキングを1時間程度している,とのことであった。ここで私は,はたと困った。いくらHbA1cが高くても,自己血糖の値や行動記録が良いのであれば指導しようがない。どう見ても自己血糖記録から食事献立・運動に至って申告はすべて嘘なのであろうが,「これは全部嘘でしょう?」と言うわけにもいかない。私は「HbA1cが悪いですが,眼科はちゃんと受診していますか」(もちろんちゃんと受診しているとの話であった),苦し紛れに「現実的には合併症の進展は血糖ではなくてHbA1cと相関します」「これからもちゃんとやりましょう」とだけ話して外来を終えた。その後私はその患者と2,3回面談したが,いつもそんな感じで全く進展がなかった。私はその後もどうしたらよいのだろうと考え続けた。結局,その患者は私との外来で何も受け取っていない。処方されたインスリンでさえ,きっと打っていないであろう。お金も薬も,さらに時間ですらも全部捨てているのである。なぜそれなら外来を受診するのか。そのときは私には理由がわからなかった。しかし,そのもやもやした気持ちは,その後私が患者の心について勉強しようという思いに繋がった。慢性疾患を管理する場合,われわれ医療者は患者の生活のすべてを見ているわけではないので,嘘をつかれれば終わりである。何の指導も支援もできない。ある意味,嘘をつかせないことがいちばん大事なことなのである。しかしこの患者の場合,彼は元の担当医に本当のことを言って怒られたのか,はたまた嫌な目にあったのか,それ以来きっと彼は本当のことを言わなくなったのだろう。