鯨井 久志 先生(精神科医/翻訳者/書評家)(聞き手)金澤 知大 (慶應義塾大学医学部3年、「医学生のアトリエ」学生実行委員長、ミスター慶應2024グランプリ)
医学生が日々の学びを通して得た感動や気づきをアートの形で発信・共有する「医学生のアトリエ」、今回は特別企画として精神科医であり、翻訳者・書評家としても活躍されている鯨井久志先生にお越しいただき、医師を目指したきっかけにもなった文学作品や医学生時代のこと、そして他者からの評価ではなく、“自分軸”でやりたいことを突き詰める大切さを語っていただきました。
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以下の記事はインタビュー動画から抜粋・編集したダイジェスト版です。本編動画には記事にない内容もございます。ぜひ 動画も ご参照ください。
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最近のオススメ本
金澤 まず最初に、鯨井先生は翻訳者であり、書評家でもいらっしゃるということで、最近読まれた本で印象に残ったものをご紹介いただけませんか?鯨井 僕は主にSFやホラーといった、非リアリズム系の作品の翻訳や紹介をしているのですが、お勧めはアルゼンチンの作家、ホルヘ・ルイス・ボルヘスですね。もともとラテンアメリカ文学がものすごく好きなのですが、最近「ホルヘ・ルイス・ボルヘスの本を10冊紹介してください」という書評の依頼が来まして、彼の作品をほぼ全作、20冊近く読み返しました。それで、あらためてボルヘスの魅力を再認識した次第です。 例えば、彼が友人のカサーレスと編んだ『ボルヘス怪奇譚集』1) 。一つひとつの話は1~2ページの短いものですが、有名な「胡蝶の夢」――荘子が夢のなかで蝶になった自分を見て、夢とうつつの境目がわからなくなる――のような超現実的な話が詰まっていて、僕の好みにドンピシャでした。さらにその拡張版のような『The Book of Fantasy』という本もあるのですが、こちらはまだ翻訳されておらず、原書を買って読みました。
奇想への憧れを育んだ作品たち
金澤 それでは、これはいつもゲストの先生方にお聞きしているのですが、今の鯨井先生につながっているような、幼少期のエピソードなどを教えてください。鯨井 幼稚園の頃からずっと『ドラえもん』を読んでいました。コミックスも何やかんやで全巻買ってもらい、ひたすらそれを読み返し続けるという子どもでした。セリフの漢字に全部ルビが振ってあるのでいいんですよ。読書が好きになって、国語が得意になったのはそのおかげですね。ドラえもんには今でも感謝しています。いまだに映画は毎年見に行っています(笑)。 小学生になると星新一にハマり、短編集を片っ端から読みました。読書家だった伯父が実家(祖父母の家)に残していた本棚に小松左京や筒井康隆の作品もあって、それらも宝物のように読み込んでいましたね。星新一のショートショートで特に印象的だったのは「殉教」(『ようこそ地球さん』収載)2) というお話です。死後の世界と通信できる機械が発明されて、亡くなった人と話をしようと人々が殺到する……という展開なのですが、最後の少し淋しげで、叙情的な終わり方が忘れられません。金澤 私も中学生のとき、星新一にハマっていました。では、その後、中高生時代はどのように過ごされていたのですか?鯨井 中学校では、最初はクイズ研究会に入りました。僕がいた学校(奈良県の東大寺学園)は全国高等学校クイズ選手権などの強豪校で、クイズ研究会は有名だったんです。でも、入ってから僕は自分が人と競争するのが苦手なのだと気づいて(笑)、本が好きだったこともあり、新聞部に移りました。その時の友人とは今でも付き合いがあって、彼は編集者になっています。金澤 その頃はどんな本を読まれていたのですか? 鯨井 ドストエフスキーや夢野久作、それと「海外の翻訳ものを読む前に、まずは日本の古典や近代文学を読んでおくべきじゃないか」という謎の強迫観念めいたものがあって、夏目漱石や谷崎潤一郎、三島由紀夫なども読んでいました。ただ、それ以上に当時はインターネットが面白かった。ちょうどTwitterがサービスを開始したばかりで、ネット文化が今よりもうちょっとアングラっぽかった時代です。どちらかというと、そっちに夢中になっていましたね。
脳や心への興味から医学部へ
金澤 ここまでお話をお聞きしていると完全に文系少年といった印象ですが、そこから医学部を目指されたきっかけは何だったのでしょうか?鯨井 それが本当に不思議なんです。小説漬けだったのに、我ながらなぜ医学部に行ったのか……(笑)。でも、小学生の頃に池谷裕二さんの『進化しすぎた脳』3) を読んで、脳の働きや精神の仕組みに興味を持つようにはなっていました。小説でも登場人物の精神状態や心の変化に触れる場面が多くて、ずっと「なぜ人は落ち込んだり、おかしくなったりするんだろう」と考えていたんです。 進路は文学部か医学部かで迷ったのですが、父から「文学部は食っていけないんじゃないか……?」と言われまして(笑)。それまであんまり進路に口を出したりしない人だったし、父も文系出身だったこともあって、それはそうなのかもしれん、と思って。で、「本は医学部に入ってから読めばいいか……」と思って医学部へ進みました。金澤 筒井康隆の小説にも影響されたと伺いました。 鯨井 そうですね。特に『将軍が目醒めた時』4) という小説です。モデルとなったのは “葦原将軍”という、某病院に実際にいらっしゃった自分を将軍だと思い込んでいる“名物患者”さんで、しばしばマスコミが政治や事件について彼のコメントを求めに行く、といったこともあったそうです。その病院をルーツとする病院が今も あると聞いて、精神医学の歴史自体に興味を抱くきっかけにもなりました。 金澤 大学生活はいかがでしたか? 鯨井 入学したのは別の関西の大学でしたが、先述の高校時代の新聞部の友人に誘われたのがきっかけで、京都大学のSF研究会に6年間ずっと出入りしていました。 金澤 よその学生でも受け入れてもらえるのですね。今振り返ってみて、「学生時代にやっておけばよかった」と思うことはありませんか? 鯨井 もっと友だちをつくっておけばよかったですねえ。僕は医学部にあまり馴染めなくて……。特に最初の頃なんかは、「スポーツと楽器をやってる奴は全員敵だ!!」と思っていましたし(笑)。そんな奴に友だちができるわけがない。でも実習で同じ班になったりして、実際に接してみると、いい人が多かった。もう少し早く心を開いていればよかったなあと思います。逆に、学生時代にやっておいてよかったのは、講義をサボってでも市立図書館に通い詰めたことです(笑)。そのときの読書体験は今の糧になっています。
日常を反転させる“すこし・ふしぎ”の魅力
金澤 学生の頃から筒井康隆を読まれて、SF研究会にも所属されていた鯨井先生にとって、SFとはどういう存在ですか?鯨井 僕はSFだけでなく、ラテンアメリカ文学や奇想小説も好きなんですが、共通するのは「奇妙な発想が現実を揺るがす力を持つ」ことですね。現実とフィクションの境目が逆転して、「今の現実も変なんじゃないか」と思わせてくれるような作品が好きです。だから、言うなればSFは「日常を反転させる媒体」です。現実が嫌だからかもしれません(笑)。でも、日常生活では得られない体験を与えてくれる大事なものです。金澤 まさに藤子・F・不二雄が言う“すこし・ふしぎ(SF)”ですね。鯨井 そうそう。あれは「すこし」なのがいいんですよね。とんでもなく不思議だとついていけない。“すこし・ふしぎ”というのは絶妙な言葉です。金澤 初期研修先が決まったのも、SFのおかげだったとか……。鯨井 そうなんです。さっき言った葦原将軍がかつて入院していた病院の面接を一応受けに行ったんですが、SFの話をしたらとてもウケて……、運良く採用されました(笑)。当時の臨床研修委員長が「変わり種も1~2人は採ろう」という方針だったおかげだったそうですが。金澤 そうして臨床現場に出られて、今までのさまざまな文学に触れてこられた経験が活かせたことはありましたか? 鯨井 文学って栄養ドリンクのように即効性があるものではないので、直接的には役立たないですねえ。ただ、精神疾患を経験した作家が書いた小説を読むと、患者さん側の景色が鮮やかに描かれていて、教科書以上に学べることがあります。「ああ、患者さんから病院はこんなふうに見えているんだ」「こういうつらさがあるんだ」とかですね。そういう意味で、小説を読むことは、そう軽んじられるものでもないですね。 金澤 最近、先生が書評を書かれていた中国のSF作品も病院が舞台でしたよね。鯨井 “中国SF四天王”の一人、韓松(ハン・ソン)の『無限病院』5) ですね。医療の効率化とパターナリズムが極端に進み、病名すら告げず検査だけが進行するディストピア医療都市の話で、とても面白いです。医者でありSF好きな僕だからこそ、これは書評を書かねば、と思った記憶があります。
“自分軸”で創った作品、お待ちしています
金澤 鯨井先生が翻訳された作品についてもお聞きしたいです。鯨井 ジョン・スラデックの『チク・タク…』6) は、SFだと有名なアシモフの「ロボット三原則」が機能していないロボットが主人公で、人を殺したり、芸術家になったり、大統領選に出たり……、結局は「人間になりたい」という憧れと復讐の物語です。ブラックユーモアたっぷりですが、同時に「人間とは何か」を問う深い作品です。スラデックは多才ゆえに散漫とも言われますが、『チク・タク…』や『ロデリック』7) では、ロボットを通じて人間の歪さを逆説的に描くことに成功していて、お勧めです。人は選ぶと思いますが(笑)。金澤 翻訳を続けるうえで「折れない工夫」ってありますか?鯨井 自分が本当にやりたいと思える作品をやることですね。モチベーションを維持できない題材に手を出すと折れます。僕は幸運なことに、好きな作家の作品を翻訳できているので続けられています。もし興味のない小説、たとえばめちゃくちゃに甘いロマンスものを訳せと言われたら、無理でしょうね。自分のモチベーションを分析して「これなら折れない」と見極めるのが大切です。 まずは自分が満足して幸せになるためにやるべき……と思いますね。「他人からの評価は完全に副産物」くらいに捉えたほうがいいです。試験勉強が多いせいか、はたまた医療職としての高潔さゆえか、医学生には “他人軸”が染みついている人が多い印象ですが、創作行為は“自分軸”でやっていいはず。金澤 とても大切なメッセージをいただけたと思います。私は医学部というのは横のつながりに乏しいと感じていまして、だから全国の医学生が“自分軸”で創った作品を集めて、皆が何を考え、どんなふうに今を⽣きているのかを互いに知って勇気をもらいたいなと思って企画したのが、この「医学生のアトリエ」です。鯨井 すごくわかります。医学部は他の学部とキャンパスが別で、“陸の孤島”になることが多いでしょう? 部活も友人関係も学部内で完結、1学年100人くらいの、すぐ噂が広まる狭いムラ社会で息苦しくなります。 入学しても、医学部という世界に馴染めない人は必ず一定数います。でも、表現や芸術を通じてつながる道もある。僕のようにそれで飯を食っている人間もいますから、そういった道を“逃げ道”ではなく、オルタナティブな新しい道として示せたらと思います。金澤 鯨井先生が主催されている「カモガワ奇想短編グランプリ」にも、失礼かもしれませんが「医学生のアトリエ」とのシンパシーを勝手に感じていました。こちらはどのような経緯で始められたのですか?鯨井 大学卒業前から『カモガワGブックス』という同人誌をやっていまして、その流れで始めたものです。大好きな奇想小説をもっと世に増やしたい、そして、それらをまとめて読みたいという、完全な私利私欲からスタートしました(笑)。まあ真面目な話、賞をつくれば自分も読めるし、概念自体を広めることにもなりますから。「世界を変えたければ自分で変えろ」というマチズモ的な発想を口にするのはやや憚られるのですが、時間と余裕さえあれば、小さくても世界は変えられると思っています。これまで2回開催しました。僕含め、同人メンバーが忙しくなってきてしまったのもあって、次回開催は未定ですが……。経緯や応募要項、受賞作はウェブサイト8) に載っているので、ぜひご覧ください。
学生時代はインプットの時期
金澤 今回の「医学生のアトリエ」は、医学部生や大学院生までを対象に募集しています。鯨井先生は、若いうちに書いたり描いたりすることには、どんな意味があると思われますか?鯨井 創作に関して言えば、正味の話、数をこなさないと見えてこないものもありますから、若いうちからスタートするのは非常に重要だと思います。それから、どの分野でも一流のクリエイターはすごく勉強していますよね。過去の作品も他分野のものも、徹底的に分析して、それをふまえて自分の作品に落とし込む。天才肌の人は別かもしれませんが、だいたいのクリエイターはそういう積み重ねをしています。特に、継続的にコンテンツをつくり続けるタイプの人はそうですね。だから、若いうちからインプットする習慣をつけておくのは大事です。社会に出ると仕事や生活に追われて時間を割くのが難しくなるので、相対的に時間がある学生時代に小説でも映画でも演劇でも、“名作”と呼ばれるものを体験しておくと、あとで必ずどこかで役に立つと思います。まあ、これは手塚治虫の受け売りですが(笑)。金澤 もし鯨井先生の学生時代に「医学生のアトリエ」があったら、どんな作品を応募されますか?鯨井 小説かなとは思いますが、正直、小説ってメディアとしては貧弱なところもあるんでねえ……。読むのに能動的な姿勢と時間が必要で、視覚的なインパクトがある絵や映像に比べると即効性に欠ける。むしろ自主制作映画を撮っていたかもしれない。医療を風刺したコント風の短編映画なんてやれば面白いかも……。いや、ダメかな?(笑)金澤 確かにそれは面白いですね。鯨井 そうだ、先ほどの「学生時代にやっておけばよかったことは?」という質問、「友だちと一緒に自主制作映画をやってみたかった」というのもありますね。お笑いとかも好きですし。金澤 ちなみに、今後取り組んでみたい創作や翻訳のテーマについて、お聞きしてもよいでしょうか?鯨井 医師というバックグラウンドをもつ翻訳者として、精神医学をテーマにしたような小説は自分が訳す意味があると思っています。今年11月に刊行されるケイトリン・R・キアナンという米国の作家の長編は、いわゆる“信頼できない語り手(unreliable narrator)”によるサイコロジカル・クィア・ホラーです。統合失調症と診断された主人公の視点から描かれる幻想的な物語は、精神科医でもある僕だからこそ訳せた作品なんじゃないかなあ……たぶん……と思っています。 そしてもう一つは、専業の翻訳家ではないからこそ、「万人受けはしないけれど、確実に面白い作品」を翻訳する余裕があることでしょうか。そうした作品を広める責務、出版文化に対する使命感とでもいうべきものもありますね。
面白いと思うことを突き詰めろ!
金澤 それでは最後に、医学生へのメッセージをいただきたいと思います。鯨井 まずは「寝たほうがいい」ですね(笑)。中高生時代、通学時間が長くて睡眠時間を削って勉強していたら、体を壊しました。睡眠時間を削って成果を出そうとしても、体調を崩せば元も子もありませんし、結局クオリティも落ちます。だからよく寝て、頭をスッキリさせた状態で勉強や創作に臨むのが大事です。 それから、創作というのは医療と違って社会的に必須の行為ではないし、多くの場合、医者をやっていたほうがお金は稼げるでしょう。でも、創作にしかできないこともあります。独りよがりでも、「自分が面白いと思うこと」を突き詰めてほしいな、と思います。評価されなくても、しぶとく続けること自体が自分の強みになります。まあ、ダメでも医者に戻れるというのは強いですから、何かピンとくるものがあれば、やってみるのを勧めます。非常に既得権益的でイヤな発言なんですけどね。金澤 ちなみに、医学生やこれから医学部を志す人にお勧めの本はありますか?鯨井 アンナ・カヴァンの『アサイラム・ピース』9) を挙げたいです。彼女はヘロイン中毒で、入院経験を抱えながらも、美しい幻想小説を書きました。この本は精神病院での体験が描かれた短編集で、精神科の患者さんの視点を知るうえでも非常に価値があります。もう一冊はシルヴィア・プラスの『ベル・ジャー』10) です。最近新訳が出ましたが、自伝的要素も強くて、若い女性の精神の不安定さや病院体験が詩人の筆致でとても生々しく描かれています。どちらも精神医療に関わる人には必読だと思っています。金澤 ありがとうございます。本日は大変貴重なお話を楽しくお伺いさせていただきました。 「医学生のアトリエ」では、小説・絵・詩・音楽など幅広く作品を募集しています。ぜひ皆さんのご応募をお待ちしています!
※「医学生のアトリエ2025」の募集要項および応募はこちら から。
■文献 1)ホルヘ・ルイス・ボルヘス,アドルフォ・ビオイ=カサーレス(著),柳瀬尚紀(訳):ボルヘス怪奇譚集.河出文庫,2018 2)星新一:殉教.星新一:ようこそ地球さん.pp410-434,新潮社,1972 3)池谷裕二:進化しすぎた脳―中高生と語る[大脳生理学]の最前線.講談社,2007 4)筒井康隆:将軍が目醒めた時.新潮社,1972 5)韓 松(著),山田和子(訳):無限病院.早川書房,2024 6)ジョン・スラデック(著),鯨井久志(訳):チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク.竹書房,2023 7)ジョン・スラデック(著),柳下毅一郎(訳):ロデリック(または若き機械の教育).河出書房新社,2016 8)カモガワGブックス 9)アンナ・カヴァン(著),山田和子(訳):アサイラム・ピース.ちくま文庫,2019 10)シルヴィア・プラス(著),小澤身和子(訳):ベル・ジャー.晶文社,2024