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執筆・撮影:田中 夏実(みんなの北診療所 所長)
(前回よりつづく)
ネパールに旅行した理由の一つは、犬のお祭り「ククル・ティハール」を見ることだった(詳細は前回参照)。もう一つは、若い頃に行きそびれて、いつか訪れたいと思っていた国であったからだ。ネパールは、ブッダの生誕地とも言われ、自分が大きな影響を受けた師が、人生の大きな転換点を迎えた地だった。
ククル・ティハール(Kukur Tihar)とは、ヒンドゥー教の毎年の祭礼であるティハールの「犬(Kukur)をたたえる日」のことである。この日は飼い犬も野良犬も、額にティカ(祝福の印)を与えられ、マリーゴールドの花輪を首にかけられて、ごちそうを振る舞われる。そのあたりの野良犬が、額にティカをつけ、花輪をかけて寝そべっている姿は、見ていて幸せな気持ちになった。

お祭り用の花輪を買う人たち。額にティカをつけ、花輪を首にかけた犬も店先に。
ネパールは、「ククル・ティハール」に象徴されるように犬と人間の距離が近い国だが、「狂犬病」の蔓延国でもある。犬のお祭りを見に来ておきながら、わたしは「野良犬には決して触らない」と決めていた。犬と人間の間に明瞭な境界線を引く「非対称性の論理」は、医学を含む近代科学において支配的な論理である。しかし、人間の心や体では、「対称性の論理」という、もう一つの論理も動いている。今回は、中沢新一の「対称性人類学」を手がかりに、ネパールで思い巡らせたことを振り返ってみたい。

野良犬も首輪をかけている。
野良犬が多いということは、繁殖による個体数の増加や虐待、狂犬病などのリスク増大といった不幸な側面も予測される。
地域猫ならぬ「コミュニティドッグ」の活動を行うボランティア団体があり、避妊・去勢手術を受けて地域で暮らす犬も多いという。
街中の野良犬ののんびりした様子を見ていると、その活動はある程度功を奏しているのではないかと感じられた。
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今そこにある「対称性」
ヒンドゥー教は、バラモン教と同じ宗教文化から発生し、土着の信仰を吸収しながら発展した多神教であり、インドとネパールで主に信仰されている。仏教もまた、バラモン教の宗教文化の中から生まれており、両者は輪廻やカルマなど多くの共通点を持つ。
ネパールでは、「ヒンドゥー教」と「仏教」の寺院が同じ場所に共存している場合もあり、一般の人々には明確な区別がされていないように見受けられた。これは、わたしたち日本人がお寺と神社を厳密に区別していない「神仏習合」の感覚に近いのではないか。
ボダナートのストゥーパの周囲に住んでいる野良犬。
仏教寺院でもククル・ティハールが行われていた。
ティハールが、犬だけでなく「カラス」や「牛」をもたたえる日を持つことは、アニミズム的な祭りであることの証左だろう。そこには、人間以外の生き物を尊重する「非人間中心主義」的なものの考え方がある。同じアジアの国である日本でも、「アニミズム」は深く浸透している。
世界のバランスを保つ「対称性の論理」
宮沢賢治の『なめとこ山の熊』1)は、私たちの根底にあるアニミズムの感覚をよく表している(青空文庫で無料公開されている短い作品なので、熊の出没が話題となる昨今、ぜひご一読いただきたい)。「神話」において、熊は自然界の最強の動物として畏怖の対象となってきた。
『なめとこ山の熊』1)では、熊と人間が殺し殺され合う関係にありながらも、互いに対等であり、尊重し合う姿が描かれている。熊が人間との約束を守って自ら死んで身を捧げたり、熊に殺された主人公を囲んで熊たちが祈りを捧げたりする。 現実的にはあり得ないことだが、「神話的思考」の中では、熊は人間と話すことができ、約束を守り、死者を弔うという詩的な世界が展開される。
神話を生きた古代の人々や、宮沢賢治のような感性を持つ人は、「人間が生活のために熊を殺す」という残酷な現実と、「熊と人間は対等に交流する」という矛盾した詩的な世界の二つを、同時に見ていたのである。

年老いた野良犬も見かけた。
人間が他の動物をやむを得ず殺すとき、このように相手を自分たちと対等と考える感覚が、無制限の殺戮や、圧倒的な知能の優越による傲慢さに歯止めをかけ、世界のバランスを保つ役割を果たしてきたのだろう。宗教人類学者である中沢新一は、人類学者のブルーノ・ラトゥール2)や精神科医のイグナシオ・マテ・ブランコ3)の考え方を援用し、これを「対称性の論理」と名づけた4, 5)。
区別し分断する「非対称性の論理」
世界中に残された神話は、人間とその他の生き物、あるいは自然との「対称性」を維持する装置のように見える。逆に言えば、そういった神話やナラティブによって意識的に対称性を回復しなければ、人間はすぐに思い上がり、容易に「非対称的」になってしまうということなのかもしれない。
かつて、人間の持つ超越的な力は、対称的な思考によって慎重に「自然」の奥に隠され、社会は「文化」的に運営されていた。古代の狩猟採集社会では権力による強制はなく、すべてを分け与える公平な首長が「文化」を守ってきた。しかし、超越的な力が徐々に権力を体現する王や国家、として表出すると同時に、「野蛮」が社会の中に現れるようになった。階級が導入され、富の独占や際限のない搾取、動物を単なる家畜として扱うような野蛮な行為が広まっていった。(詳細は中沢の〈カイエ・ソバージュ〉シリーズをぜひ参照されたい)

お寺でお経を読むお坊さんのそばで眠る犬。涼しそう。
こうして人間社会に導入された圧倒的な力の進化形の一つが、「近代医学」である。医学は「非対称性の論理」を用い、人の生老病死という自然に抗い、科学の力で克服しようとしてきた。病いの原因を、要素を細かく細分化することで特定し、それを修理したり、人間の身体から切り離すことで疾患を治療しようとした。
人間の心は「バイロジック(複論理)」で動く
しかし、人間の心や体そのものは「対称性の論理」でも動いている。たとえば、自らの病気や死という過酷な現実を受け入れる過程において、人間はそこに意味を求め、科学的には無関係なはずの過去の出来事や他の症状とのつながりを見出そうとする。意識的ではない場合でも、幼少期のトラウマや生活環境の不遇が、長い時間を経て身体の不調や疾患として現れることもある。これら心身の動きの背景には、古代の神話や宮沢賢治1)の物語に通じる「対称的な論理」があると言えるだろう。

路上に寝そべる野良犬。よく太っている。
精神科医マテ・ブランコ3)は、人間の心は「バイロジック(複論理)」で動いていると主張した。
一つは、異なるものを区別し、分割可能なものとして特徴づけていく「非対称性の論理」。これは日常的な論理思考や科学的思考に相当し、そこでは「人間」と「動物」は異なり、「わたし」と「あなた」は区別される。また、「部分」と「全体」は異なる。たとえば「AはBの一部である」とき、逆の「BはAの一部である」は成立しない。時間は過去から未来へと不可逆的に流れる。これにより、物事は区別され、秩序づけられる。
もう一つは、異なるものを同じものとして、部分を全体として捉える「対称性の論理」。神話や詩の領域、そして現代人が抑圧している「無意識」の領域ではこの論理が働いており、そこでは部分は全体と一致し、人間は熊や犬と同じであり、わたしはあなたなのである。
「対称性の論理」が開く慈悲
「対称性の論理」が働いているのは、神話や詩、無意識だけではない。中沢新一は、ネパールでの「仏教」の修行体験を語っている5)。ネパールでは早朝、その日に売る肉を手に入れるために肉屋が動物を殺す。中沢は先輩の僧にその場所に連れて行かれ、「殺されるヤギが自分の母親である」という瞑想を行ったのだという。
仏教において、人間や動物のような意識ある存在は「有情(うじょう)」と呼ばれ、有情の「心」は、その生物が死んだとしても消え去るのではなく、心の連続体のようなものに合流して、つぎの有情に生まれ変わっていくと考えられている。この考えによれば、わたしたちの個人的存在などというものは、それ自体で孤立して成り立つ存在ではなく、「無限な過去から続いてきた生命の輪廻の巨大な環の、一環にすぎない」5)。「殺されるヤギが自分の母親である」という瞑想によって、人間である自分や、ここにいるヤギという一つの部分的生命が、生命全体に一致するという「対称的な思考」を体得し、それが慈悲の概念に育っていく。熊を人間と対等なものと考える「神話的思考」と仏教は深くつながっている。

肉屋の店先では鳥が「生体販売」されている。
つながれているヤギはこれから肉屋に売られるところだろうか。
医療の現場に「バイロジック」を
では、私たち医療者のフィールドである臨床現場はどうだろうか?
疾患を特定し治療するには、「非対称性の論理」である科学的思考が不可欠な力を持つ。その影で、「対称的な思考」は息をひそめている。しかし、患者が生きる生活の場では、「対称性の論理」もまた大きな役割を果たしている。
臨床の現場において、家庭医は患者の生活背景を想像し、その病い体験や解釈を理解しようと努める。それは決して科学的に整合性のある形をとらないかもしれない。しかし、患者のナラティブを重視し、科学的思考と同等に扱うこの姿勢こそ、英国のGP(general practitioner)であるJoanne Reeve6, 7)が提唱した「Expert Generalist Practice(卓越したジェネラリスト診療)」の核となるものではないか。
こうした実践は、近代医学が切り捨てた「対称性の論理」(アニミズム的なつながりの感覚)を臨床の場に回復させ、非対称的な科学的論理との「バイロジック」を医療に再導入する試みと言えるのではないか。
そんなことを、ネパール旅行中にぼんやりと考えていた。
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無邪気に遊ぶ犬、穏やかに寝そべる犬、尻尾を振って近づいてくる犬。つい手が伸びそうになるが、理性がそれを止める。万が一、その犬が「狂犬病」を持っていたらと考えると、迂闊に手を出せない。この科学的知識、すなわち非対称性の論理が、わたしと犬との間に明確な境界線を引いていた。
パタンでも、カトマンズでも、郊外の田舎道でも、人間の近くには必ず犬がいた。飼われている犬もいるが、野良も多い。首輪もせず薄汚れてはいるが、よく太り、警戒心のかけらもない犬たち。写真を撮っても無視するか、気だるげにこちらを一瞥してまた眠ってしまう。

バクタプルの観光地のど真ん中でくつろぐ犬。
旅行の最終日、古都バクタプルを散策していたときのことだ。一匹の黒い野良犬が近づいてきたかと思うと、わたしたちの足元で腹を見せて寝転んだ。よく見ると片足が動かない。起き上がると、尻尾を振って頭を差し出してくる。隣にいた友人が、咄嗟にしゃがみこんでその犬を撫でた。思わず、あっと声が出た。一通り撫でて立ち去るとき、犬はその場に留まったが、じっとこちらを見送ってくれていた。

過酷な修行をしなくとも、人は犬と心を通わせる一瞬において、「対称性の論理」を取り戻すことができる。その瞬間、人間は犬であり、熊なのだ。そして、そのような「つながり」の感覚を持ち続けることこそが、科学の光で見落とされがちな患者の全体性を捉える、家庭医の役割なのかもしれない。
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文献
1)宮沢賢治:なめとこ山の熊. 青空文庫, 2005 [cited 2025 Nov 30]
2)ブルーノ・ラトゥール(著), 川村久美子(訳):虚構の「近代」―科学人類学は警告する. 新評論, 2008
3)I. マテ-ブランコ(著), 岡 達治(訳):無意識の思考―心的世界の基底と臨床の空間. 新曜社, 2004
4)中沢新一:対称性人類学 カイエ・ソバージュ 5. 講談社, 2004
5)中沢新一:熊から王へ カイエ・ソバージュ 2. 講談社, 2002
6)Reeve J, et al : Examining the practice of generalist expertise ; a qualitative study identifying constraints and solutions. JRSM Short Rep 4(12) : 2042533313510155, 2013 [PMID : 24475347]
7)Reeve J : Interpretive medicine ; Supporting generalism in a changing primary care world. Occas Pap R Coll Gen Pract (88) : 1-20, v, 2010 [PMID : 21805819]

田中夏実
みんなの北診療所 所長
1974年生まれ。いわゆるロスジェネ、団塊ジュニア世代。中沢新一『雪片曲線論』(青土社、1985)に衝撃を受け、文系の大学に進学。就活に身が入らず、卒業後は独学でウェブ制作の技術を学び、派遣社員、ベンチャー企業、システム開発会社などを経て独立した。リーマンショックの打撃を受け、人生を考え直す。信州大学医学部入学、市立大町総合病院で初期研修、2020年より生協浮間診療所・医療福祉生協連 家庭医療学開発センターにて総合診療および家庭医療の専門研修。2025年春より生協北診療所(同年8月に「みんなの北診療所」に改称)所長に就任。個人note:https://note.com/nu_family