第2回 北部医療センター


明日宮もなか(Twitter:@monaka_asumiya)


「うわぁ,次のバスまでまだ30分もある…」
20時過ぎの研修医室に杏奈の声がむなしく響いた。昼間にコンビニで買っておいた特盛カップスイーツを冷蔵庫から取り出すと,スクラブのまま勢いよくソファーにダイブした。


この研修医室は広い。いや,空間としては平均的だが,10人用の部屋を1人で独占しているので相対的に広い。スイーツの蓋を開け,口いっぱいに広がるクリームの甘さを感じながら,杏奈はぼんやりと周りを見渡した。


ソファーの右隣には冷蔵庫と電子レンジがある。もともと別の場所にあったが,ソファーに寝転んだまま手が届くように杏奈が動かした。下段の冷凍庫には普段用の特売アイスと,ご褒美用の高級アイスが常備されていた。

 

冷蔵庫の奥には電子カルテ端末が2台並んでいる。冷蔵庫に近い方が杏奈の定位置だ。読みかけの医学書やファッション雑誌が窮屈そうに積み上げられていた。電子カルテ端末の奥には宿直で使用する二段ベッドが置いてある。ベッド横の壁面には研修を終えた諸先輩方のネームプレートが飾られている。数が多すぎて名前を確認したことはないが,ずらりと並ぶプレートの多さから過去の研修病院としての人気ぶりがうかがわれた。


北部医療センターは「忙しさのなかで自然と実力がつく病院」として有名だった。県内でも有数の研修病院として多くの研修医を受け入れてきた。しかし,いまの時代に“昭和的な,体育会系の雰囲気”はマッチせず,8年ほど前から研修医が徐々に減りだした。当初は病院幹部も強気だったが,志願者数は指数関数的に減少した。杏奈が来るまでの4年間,研修医数は「ゼロ」だった。

 

“教育に力を入れる”という名目で昨年から副院長が変わり,大学病院から心臓血管外科のベテラン医師が着任した。同じ年に入職した杏奈は環境改善に期待していたが,毎回のローテが終わるごとに「指導医は熱心だったか」というアンケート評価が加わっただけだった。

 

「そりゃ,“熱心”なんですけどね。そこじゃないんだよなぁ…」
本音を押し込むように,コンビニスイーツをほおばった。ソフトテニスで鍛えたガッツで指導医にくらいついていたが,深く考えずに直観で動くタイプだったのでよく叱られた。学業成績も悪くなく,持ち前の素直さとコミュ力の高さで周囲から好かれてはいたが,“背中を見て学べ”の環境における「自己成長の限界」を感じていた。

 

そこに颯爽と現れたのが飛鳥だった。先週の病棟急変での鮮やかな対応は衝撃だった。昨日,試しに救急外来で困ったケースを相談してみたら丁寧なフィードバックをもらえた。考え方の筋道を教えてくれた指導医は今までいなかった。「またコーヒーでも飲みにおいで」という飛鳥の言葉を思い出したところで,特盛スイーツがいつの間にか最後の一口になっていることに気づいた。バスの出発時間までまだ15分ある。「コーヒーでも飲むか…」

 

杏奈のデスクは物が多い。ネットで購入した医学書,ゆるキャラのぬいぐるみ,ハンドクリームに当直セット。大量のチョコとグミで引き出しの最下段は半開き。隣の机との境界線は容易に突破され,両サイドの机も杏奈の私物であふれていた。クリーニングから帰ってきたスクラブと白衣,お土産でもらった置物,ネットのスーパーセールで買いだめしたジュースと謎のお菓子。

 

入職直後は“ホラー的な何か”が起きないか,びくびくしながら過ごしていた広い部屋も,いまは自分だけの“スイートルーム”になっていた。引き出しの奥からスティックコーヒーを探し出し,シンク横のポットから勢いよくお湯を注いだ。熱いコーヒーをすすりながら,副院長の年初の挨拶を思い出した。
「私が着任したからには,今年こそ研修医を増やします!」
「シャワー付きの当直室くらいないと,いまどきの研修医は来ないって」
じゃあここにいる自分はなんなんだと,自虐的な気持ちになった。
ふと,横を見る。引き戸の内側の張り紙に気がついた。

 

杏奈さん  
 来週から,たすき掛けの2年目研修医が来ます。そのうち1年目も来ますよ。
 受け入れ準備お願いします。忙しくなりそうですね。  飛鳥

 

「え,マジで来るの!? 同期! 後輩! すごい!」
コーヒーを飲みながら何度も頭の中で反芻した。
「副院長先生,嘘つき呼ばわりしてごめんなさいっ!」
ただ,最後の一文が,微妙にひっかかる。
「“忙しくなる”って…。もちろん,仕事の話よね…」
1年間,好き放題してきたスイートルームの現状は見なかったことにして,急いで部屋から駆け出した。
バスの出発時間は,もうすぐだ。


杏奈と仲間の青春研修生活を描く「サバレジ」,次回もお楽しみに!
飛鳥の指導で成長する杏奈の様子は天野雅之先生の「臨床現場の仕事術」をチェック!!(毎週水曜日更新)

 

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