第3回 同期の研修医

明日宮もなか(Twitter:@monaka_asumiya)


今日は同期がやってくる。昨晩,杏奈はほぼ眠れなかった。遠足前の子供みたいに“興奮で目が冴えた”というわけではない。散らかり放題だった研修医室を片付けるのに,一晩かかってしまったのだ。着替えるため一旦自宅に帰ったが,そのまま寝落ちした。フローリングの寝心地の悪さで目が覚め,急いでシャワーを済ませ高速で髪を乾かした。
「(これができるからボブはやめられないんだよなぁ)」と自分の髪の短さに感謝しつつ,バスに飛び乗り遅刻寸前で出勤した。身体は重かったが,足取りは軽かった。

 

「(もう来てるかな…)」
研修医室の入り口をそーっと開けると,昨日まで杏奈の私物が置かれていた場所に“巨大な白い壁”ができていた。朝から事務員が設置したのだろうか。ぐるっと回りこみ,裏側をのぞくと,その正体は巨大な本棚だった。その周りには20箱もあろうかという段ボールがびっしりと積み上げられていた。段ボールの持ち主の姿はなかった。

 

誰が言い出したのかはわからなかったが,新しい同期の前評判は「おとなしくて,いい感じの人」とのことだった。机に目をやると,黒いフォーマルバッグの横に院内用PHSが置かれ,オリエンテーション資料はすでにパンチで穴があけられていた。
「(少なくとも,几帳面なタイプのようね)」
住人不在をいいことに杏奈は再び机の方向に目を走らせる。紙袋に入った菓子折りをめざとく見つけ出した。
「(温泉饅頭! 手土産にしてはチョイスが渋いなぁ。でも私,お饅頭好き!)」

 

さらに目を走らせると,テープが剥がされている段ボールがあることに気づいた。きっと作業途中で辞令交付式にでも呼ばれたのだろう。スキマから本の背表紙が見えていた。そっと開けてみる。

 

『なぜ?に答えるロジカル臨床生理学』
『頭を使え!難解症例100本ノック』
『臨床現場の診断学:まず,考えよ』
『思考力を鍛えるための臨床検査解釈法』
『病状説明―ケースで学ぶハートとスキル』
『内科学大全―知識を求める医師のために―』

 

「(絶対,頭イイ系じゃん! 勉強会とかでバリバリ活躍してそうな人じゃん!!)」
大量に貼られた付箋から,これらが持ち主の愛読書であることが一目でわかった。
杏奈は自分の机に帰ると,本棚に置かれた書籍の前に大袋のお菓子を並べ始めた。ポテトチップスのスキマから,『楽して得する! 臨床研修これだけポケットブック』の背表紙が申し訳なさそうに杏奈をのぞいていた。

 

「あのー…」
菓子袋の角度の微調整に熱中していた杏奈は,急な呼びかけに思わず飛び上がった。その拍子で,せっかく並べた菓子袋が落ちてしまった。
「お菓子,落ちましたよ」
「いや,これは別にその,隠そうとしたわけじゃないですからね」
「何をです?」
「いやいやいや,なんでもない。あ,えーっと…」
杏奈はようやく声の主を直視した。紺色のスクラブにクリーニングしたての白衣を羽織り,都会の空気感を漂わせる女子が杏奈を見つめていた。
「湯之原なぎさです。今日からお世話になる研修医です,よろしくお願いします」
なぎさがちょこんとお辞儀し,姿勢を正してハーフアップにまとめた髪を後ろに払った。
「(育ちの良さそうな箱入り娘,都会育ちのエリートお嬢様,きっと大学は港町…)」
勝手に妄想を膨らませながらも,杏奈は同期の着任に歓喜を隠せなかった。

 

「来てくれて嬉しい! 私は登美山杏奈です。杏奈って呼んでね」
「よろしくお願いします。研修医の先生ですか…?」
「あ,うん,2年目! 同じ2年目同士だよね?」
「はい,そうです」
「念願の同期! フツーにタメ語で喋ってね! あ,なぎさって呼んでいい?」
「はい‥」
杏奈の勢いに圧倒されるなぎさにお構いなしで,杏奈は早口に話を続ける。
「大学当てていい? 神戸か,横浜! どう?」
「神戸です」
「やっぱり! そんな気がした! ところで,すごい量の段ボールだね。全部,本なの?」
「あ,うん,紙の本が好きで…。スペースとってすみません」
「いやいや,いいのいいの。去年はどこで研修したの?」
「府立中央医療センター」

 

府立中央医療センターといえば,大都会の真ん中で全国屈指の救急搬送受け入れ件数を誇り,全国の医学生が殺到するトップクラスのハイパー研修病院だ。
「なぎさは,どうしてわざわざ奈良の無名病院に来たの?」
「たすき掛け。急に予定が変わっちゃって。行き先がなくて困っていたら,ついこの前,ここの非常勤の飛鳥先生が会いに来てくださって,ここなら沢山経験を積めると誘ってくれたの。キャリアは自分でつかみ取る。早く実力をつけて,一年後には有名病院に戻るのが私の目標。よろしくお願いします」

 

優雅な笑顔で挨拶を終えると,なぎさは本棚の整理を始めた。思いがけない妹弟子の登場に戸惑いながら,杏奈も自分の席に座った。お互いの姿はちょうど巨大な本棚の陰に隠れて見えない位置関係だった。コミュ力には自信がある杏奈だったが,この時ばかりは一抹の不安があった。これから1年,同期と仲良くやっていけるだろうか…。


杏奈と仲間の青春研修生活を描く「サバレジ」,次回もお楽しみに!
飛鳥の指導で成長する杏奈の様子は天野雅之先生の「臨床現場の仕事術」をチェック!!(毎週水曜日更新)

 

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