第5回 院内案内

明日宮もなか(Twitter:@monaka_asumiya)


この病院で研修医が二人一緒に歩く光景が見られるのは久しぶりだった。つい先ほど着任したばかりの湯之原なぎさは,病院から支給された濃紺の指定スクラブに着替えていた。登美山杏奈はお気に入りのえんじ色のスクラブに身を包んでいた。

 

なぎさの院内案内を指導医から任され,杏奈はいつも以上にテンションが高かった。仲良くなれるか不安に感じていた杏奈だったが,同期ができた喜びが勝り,誰とでも臆せず会話できる能力を遺憾なく発揮していた。

 

「ここが職員食堂。カレーが美味しいけど,カツカレーにすると10分くらいかかるから時間がないときは頼まないほうがいいよ。で,あっちがコンビニ。あ,なぎさはお菓子とか食べる? 毎週火曜日が新商品の発売日だよ!」

 

少し前にいる杏奈が後ろを振り返ってなぎさに解説し,話し終わらないうちにピョコピョコ飛び跳ねる小動物のように小走りで次の場所に行く。杏奈が動くたび,短いボブヘアが揺れ,シャンプーの良い香りが漂う。
「(さっきは眠そうだったのに。朝から元気だな…)」
なぎさはその様子を冷静に分析しながら,とめどなく続く説明に表情を変えることなく小さく頷いていた。

 

最上階のヘリポートからスタートした院内案内も,ようやく一階に到達した。普通に回ると30分もかからないのだが,行く先々で杏奈はスタッフから笑顔で声をかけられた。立ち話をし,なぎさをスタッフに紹介し,急な処方依頼にも対応し,二人はかれこれ2時間近く院内を歩きまわった。それでも杏奈は楽しそうに話を続ける。

 

「それから,向こうにATMがあって,あ,でも今時スマホ決済だよね。コンビニ使うなら,なぎさもポイントカード作ったほうがいいよ!」
正面玄関の大広間にある時計が目に入り,杏奈はふと我に返った。
「やば,もうこんな時間! なぎさ,ごめん! 疲れたよね?」
顔の前で合わせた手の横から,杏奈はそっと同期の顔を伺った。
「ううん,大丈夫」
なぎさは表情を変えずに淡々と返事をする。
「次で,最後だから! とっておきの場所を紹介するね!」
杏奈は無邪気な笑顔を浮かべ,職員専用廊下から脇に逸れた通路を駆けていった。なぎさも,はぐれないように追いかける。杏奈が突きあたりのナンバーロックの扉を開けると,そこは思いがけず建物の外に繋がっていた。

 

「じゃーん,ここが秘密の中庭です! 昔は喫煙所だったらしいけど,今は全面禁煙で中庭になったの。今では扉の暗証番号を知ってる人も少なくて,隠れ癒しスポットなんだよ。私も四階の師長さんに教えてもらったんだ。さあさあ,座って座って」
杏奈が自慢げに話す。
建物のくぼみに作られた中庭と呼ばれるスペースは,二階部分がちょうど屋根になっており雨でも濡れない構造だった。二人でも少し狭さを感じる小さな空間だったが,屋根の下には自動販売機とベンチがあった。なぎさがベンチに腰かけると,市街地を眼下に一望できた 。
「ビルが…低い」
数日前まで見ていた都会の景色とはまるで違う街の風景を見つめ,なぎさは自分が奈良にいることを実感していた。

 

「ちょっと休憩しよう! なぎさは炭酸,飲める?」
なぎさが声の方を振り向くと,返事をする前にコーラが飛んできた。落としそうになりながらも,なぎさはかろうじてキャッチした。
「うん,大丈夫。登美山さん,お金を」
「あ,いいよ,今日は就職記念ということで! それに,杏奈でいいからね!」
自分のコーラを抱えた杏奈が,なぎさの隣にちょこんと腰掛けた。
「ありがとう…,杏奈」
なぎさの返事を待たず,杏奈はコーラを開け,勢いよく飲みこんだ。
「あ,乾杯忘れちゃった! ま,いっか。ところで,なぎさは何で急に研修先が変わったの? 向こうの病院の都合?」
杏奈の質問に重なるタイミングで,なぎさが開けたコーラが勢いよく噴き出した。なぎさはうまく缶を傾け,手が汚れるのは防いだが,かなりの炭酸が抜けてしまった。
「ちょっと上級医とトラブっただけ」
なぎさは無表情のまま,あふれだすコーラの泡を丁寧に一口すすった。
「まさか…色恋沙汰?」
「違う」
なぎさは杏奈の問いに食い気味に返事する。
「ごめん」
杏奈も素早く謝罪した。なぎさには冗談が伝わらなかったようだ。

 

なぎさはしばらく景色を見つめていた。あの県境の山の向こうに,数日前まで過ごした病院がある。なぎさはコーラを一口飲んだ。すっかり炭酸が抜け,甘みと苦みが残る液体が喉の奥を通過した。
「(ここは奈良だ。もう,あの病院とは無関係なんだ)」

 

小さくため息をつき,なぎさは口を開いた。
「…診断エラー」
「え? どういうこと?」
なぎさから出た意外な言葉に,杏奈はなぎさの顔を覗き込んだ。
「ERで内科部長とペアで診た発熱のある50歳の脳梗塞患者。部長は“どうせ誤嚥性肺炎だ,tPAを急げ”って。指示通りに私が薬剤をオーダーした。部長がtPAの開始ボタンを押し,経過説明のため席を外した直後,患者の指先と眼瞼の出血斑に私が気づいたの」

 

「(tPAの出血傾向? いや,まだ早すぎよね…)」
杏奈は頭をフル回転させながら聞いていた。
「感染性心内膜炎かもしれないと思って部長に電話したけど,切られた。だから自己判断ですぐtPAを止めた」
「おぉー。思いきったね」
指導医の指示を自己判断で止める行動力は杏奈にはなかった。というより,感染性心内膜炎という診断を想起した同期の頭脳に感心していた。

 

「そのあと帰ってきた部長はtPAが止まっているのを見て怒鳴り散らしていたわ。無視して心エコーを当てたら弁に疣贅があった。よく見ると頭部MRAで感染性動脈瘤もあった。もちろんtPAは中止。幸い薬剤はほとんど体内に入っておらず,心臓血管外科で緊急手術になった」
杏奈は同期の診察力に感動し,胸の前で小さく拍手しながら,なぎさの顔を見つめていた。
「え,それってすごい! お手柄じゃん! でもどうしてそれで問題になったの?」
「患者にとっては,問題じゃなかった。部長にとっては,問題だった」
なぎさの哲学的な返事に,杏奈の頭の中は「?」で満たされた。

 

「患者は,病院の理事長の息子だった。そのあと理事長も来て,長い病状説明が行われた。私は説明に同席せず次の患者を診ていた。2週間後,研修予定だった病院から急に不採用通知が来て,別の同期が行くことになった」
杏奈は胸のザワつきを必死に抑え込みながら話の続きを待った。

 

なぎさはまた小さくため息をつき,話を続けた。
「聞いたウワサによれば,どうやら私は“感染性心内膜炎による脳梗塞患者に,独断でtPAを投与し始めたヤバい研修医”ということになったらしい」
杏奈は思わず立ち上がった。その目は怒りに満ちていた。
「ありえない! 論点がズレてるよ! なぎさは感謝される側じゃん! 濡れ衣を着せるなんてひどすぎるよ!」
杏奈と対照的に,なぎさは冷めた目で景色を見つめていた。
「指導医は保身が大事で,同期同士も常に競争。全体で40人も研修医がいると,病院も一人一人に気を配っていられない。自分の身は自分で守る。自己責任なの」
「でも,納得いかない!」
杏奈は仁王立ちで怒りの言葉を吐き出した。
「もういいの。あの病院に未練はない。でも,専門研修ではもっと有名な病院に行く。見返してやる。…それが,私の目標」
「わかった! 私,なぎさがこの病院で大活躍できるよう手伝うよ! 未来を自分で選べるひとは,チャレンジしたほうがいいと思う!」
杏奈は真っ直ぐになぎさの目を見つめて熱く返事をした。
「ありがとう…ございます」
あまりの覇気に,なぎさは思わず敬語で返してしまった。
杏奈は笑顔で大きくうなずくと,胸中に湧き上がるいろいろな思いを,まだ炭酸の残るコーラと一緒に流し込んだ。


杏奈と仲間の青春研修生活を描く「サバレジ」,次回もお楽しみに!
飛鳥の指導で成長する杏奈の様子は天野雅之先生の「臨床現場の仕事術」をチェック!!(毎週水曜日更新)

こちらの記事の内容はお役に立ちましたか?