第6回 救急外来

明日宮もなか(Twitter:@monaka_asumiya)


(前回はこちらから)

北部医療センターの職員食堂は今日も多くの職員で賑わっていた。午前勤務を終えた杏奈となぎさも食堂にやってきた。厨房から日替わり定食を受け取り,かろうじて2席空いているテーブルを見つけた。

 

同じテーブルの先客はゴルフの話題で盛り上がる放射線技師たちだった。杏奈が普段通り声をかける。
「みなさん,お疲れさまでーす。ここ使っていいですか?」
杏奈の挨拶に年配の男性技師が気さくに応じる。
「どうぞどうぞ。そういえば杏奈ちゃんはゴルフの打ちっぱなしは行ったことある?」
「え,ゴルフですか? 行ったことないです。難しいんでしょ?」
「いやいや,打ちっぱなしは初心者でも大丈夫だよ。ちょうどうちの若いのを連れていくんだ。今週末どう? 一緒にいく?」
「え,行ってみたいです!」
1年も経てば院内の大部分のスタッフと顔の見える関係ができていた。
もっとも,1年前でも杏奈はこの調子だった。

 

「そちらの先生もご一緒にいかが?」
「あ,いえ,私は結構です」
なぎさがそっけなく答えた。なぎさはこれが通常運転だ。
「えー,一緒に行こうよ! 楽しそうだよ!」
「いえ,あまり興味がわかないので」
杏奈が声をかけ,なぎさがするりとかわす。このやり取りも見慣れた光景になった。

 

~~~~~~~~~~~~
ちょうど昼ご飯を食べ終わるタイミングで,なぎさのPHSの呼び出し音が鳴った。
「はい,いまからですか? …はい,わかりました」
電話の相手は,現在なぎさがローテート中の内科の上級医だった。
「どしたの?」
杏奈が明るく問う。
「午後のER担当のドクターが病棟急変対応で動けないらしいの。代わりにERを手伝ってほしいって」
なぎさは急いで食器を片付けると,足早に食堂の出口へ歩いて行った。
「あ,じゃあ私も手伝うよ! 今日は暇なんだー!」
杏奈も食器を片付け,なぎさを追いかけた。

 

北部医療センターのERには診察室が3つあった。診察室は患者待合とバックヤードに挟まれる位置にあり,バックヤード側のドアは常時開放されカーテンで仕切られていた。バックヤードにはメディカルアシスタントや看護師が控えており,そこを抜けると重症患者対応をするための処置室が5つ並んでいた。3次救急や外傷患者は救急医が処置室で担当していたが,2次までの内科救急は曜日ごとの担当内科医が診察室で診療していた。

 

その日のERは普段以上に混雑しており,助っ人の登場に内科上級医は大喜びだった。2年目ともなれば研修医も立派な戦力になる。特に,忙しい病院で鍛えられてきたなぎさの診察は速いことで有名だった。さっと話を聞き,迅速に手技を実施し,危険な疾患を除外する。とにかく合理的に診療を進める姿勢は繁忙時には大助かりだったが,看護師がルートキープにもたついていると無言で対側の腕で処置を始めることもしばしばあり,看護師からは「機械みたい」と評されていた。

 

診療開始から2時間ほど経過し,杏奈となぎさは現時点で合計6人の患者を診察した。感冒患者を手際よく診療したなぎさは,頭痛で受診した50代男性の診察を始めた。しばらく後,別患者の診察を終えた杏奈がバックヤードに戻ってきた。杏奈が機嫌よく手を洗っていると,診療中のなぎさの声がカーテン越しに聞こえてきた。

 

「中年男性に急性の頭痛を生じる疾患を検討しましたが,あなたの頭痛は片頭痛です」
なぎさの柔らかい声質もあって説明に嫌味な感じや高圧感はなかったが,自信に裏打ちされた言葉にはどこか反論を許さぬ雰囲気があった。
「片頭痛,ですか…」
患者の表情は見えなかったが,不安げな声色だった。
「はい,片頭痛です。痛み止めの点滴をしますので,終わったらご自宅で安静にしてください。飲み薬もお渡ししますね」
なぎさの病状説明は簡潔に終了した。

 

患者待合につながる診察室のドアが閉まる音を確認したのち,杏奈はバックヤード側のカーテンを少しだけ開けると,その隙間からひょこっと首だけを出し診察室を覗き込んだ。
「ねぇなぎさ,それ終わったらここ使っていい? 空いてる電子カルテがなくてさ」
カルテの最後の一行を書き上げたなぎさが答える。
「いいよ,もう終わった。私は救急車対応を手伝ってくる」
「なぎさは速いなぁ」
杏奈がそう言い終わるころには,なぎさは杏奈の脇を通り抜け,手袋をはめてベッドサイドに向かっていた。

 

杏奈は診察室の医師座席に座り,電子カルテにログインした。さきほど自分が診た患者のカルテを整理していると,患者待合側のドアがノックされた。杏奈が返事をする前に,中年の女性が申し訳なさそうに診察室を覗き込んだ。

 

「あの,すみません,ちょっとお尋ねしてもいいですか」
「あ,はい,どうなさいましたか」
「いまこの部屋で診察を受けた患者の妻なのですが,本人が聞きたいことがあるみたいで」
「あ,さきほど担当した医師を呼んできますね」
バックヤード側のカーテンを開けてなぎさを探したが,その姿は見えなかった。

 

「あの,あなたもお医者さんですか?」
妻が診察室にそろりと入ってくると,杏奈の後ろ姿に向かって尋ねてきた。
「あ,はい。どうかなさいましたか?」
妙な雰囲気に杏奈も思わず尋ね返す。
「うちの旦那が,“脳出血じゃないか”と心配しているんです。ちょっと,あんた」
妻に呼ばれ,“片頭痛”の診断に不安げに返事していた声の主が診察室に入ってきた。
「さきほどの担当者が戻りましたら説明しますので…」
「いや,先生,とにかく話だけでも聞いてやってください」
この女性の醸し出す“断れない空気感”に負け,杏奈は仕方なく患者のカルテを開いた。

 

なぎさの書いたカルテは理路整然と整理されていた。頭痛の鑑別診断一覧がびっしり書き込まれ,それぞれの可能性について言及されていた。
結局,本人は口ごもってしまい,終始妻が話をした。とめどなくあふれる話を,杏奈はうなずきながら聞いた。脳出血を含む“片頭痛とよく似た症状を呈する別の疾患らしさ”はなく,やはり典型的な片頭痛と思われた。

 

話がひと段落したタイミングで,風もないのにバックヤード側のカーテンがふわりとなびいた。杏奈は慎重に言葉を選びながら説明を始めた。
「ご心配されている脳出血であれば神経に何らかの異常が出てもおかしくないのですが,幸い現時点ではそれらの症状はないようです。さきほど診察を担当した湯之原先生も脳出血を含めて候補に挙げて検討したうえで,最終的に片頭痛が最も疑わしいと考えてらっしゃったようで,カルテにもしっかり記載されていました」
「あ,そうでしたか。さきほどの先生も脳出血のことも考えてくださっていたんですね」
患者の顔に安堵の表情が浮かぶ。

 

「痛み止めの点滴が終わるころに改めて説明してもらうよう,湯之原先生にお伝えしておきますが,それで大丈夫そうですか?」
笑顔で杏奈が尋ねた。
「いえ,もう納得したので大丈夫です。先生は話しやすくて助かりました。ありがとうございました」
患者もつられて笑顔になる。
「うちの旦那は気が小さくて。さっきのお医者さんは怖くて聞きづらかったんですって。ほら,冷たい感じでしたでしょ?」
妻が無邪気に話す。杏奈は苦笑いで返す。
「あなた,お名前は,登美山先生ね。登美山先生がいてくださってよかった。ありがとうございました。点滴室はどちらでしたっけ?」
妻が矢継ぎ早に言葉を繋ぐ。患者と妻の晴れやかな表情と対照的に,杏奈は複雑な表情を浮かべながらも,患者待合側のドアを開け,2人を点滴室へ案内した。

 

カーテンの外側で,空っぽになった診察室に背を向け,なぎさは立ち尽くしていた。足元を見つめる表情はマスクで隠れていたが,隙間からのぞく頬は紅く染まっていた。

 

「湯之原先生」
一部始終を見ていたメディカルアシスタントがなぎさに声をかける。
「杏奈先生が自分から動いたんじゃないですよ。ご家族が急に入ってきたから杏奈先生は仕方がなく」
「本人もご家族も,心配性ですね」
遮るようになぎさが答える。
「心配だから,受診してくるのかもしれませんけどね?」
とぼけた様子でメディカルアシスタントは答える。

 

「…ちょっと,水分,とってきます」
なぎさは俯いたまま,ERを後にした。

(次回へつづく)


杏奈と仲間の青春研修生活を描く「サバレジ」,次回もお楽しみに!
飛鳥の指導で成長する杏奈の様子は天野雅之先生の「臨床現場の仕事術」をチェック!!(毎週水曜日更新)

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