第7回 困難を超えて


明日宮もなか(Twitter:@monaka_asumiya)


(前回はこちらから)

「はぁーっ,疲れた。プリン食べよ」
病棟業務が一区切りついた午後3時。杏奈の独り言が病院バックヤードの廊下に響いた。伸びをしながら研修医室手前まで歩いてきたところで,一瞬立ち止まる。ちょっと遠慮気味に扉を開けると,自席に座ったなぎさが頬杖をついて壁を見つめていた。

 

以前のなぎさは,空き時間には救急外来に仕事を探しに行ってしまうほど積極的だったが,最近は,ただぼんやりと自席に座っていることが増えていた。業務はこなしていたが,小さなミスが続き叱られる場面が目につくようになってきた。
今日の午前も災難だった。杏奈となぎさは一緒にER研修を行ったが,上級医は気分屋として院内で有名な医師だった。なぎさはうっかり地雷を踏んでしまい,理不尽な理由でひどく怒られてしまった。
普段のなぎさならスルーできていたはずだが,今日のなぎさは様子が違った。「席を外します」と言った後そのままERには帰ってこず,杏奈が送ったスマホのメッセージも既読にならなかった。なぎさの姿を探してみたが見つからず,杏奈は仕方なく業務に戻っていたが,この時間になってようやく研修医室で姿を見ることができた。

 

なぎさの席の後ろにあるソファーに腰掛けながら,杏奈はなぎさに声をかけた。
「なぎさ,お疲れ。心配したよ,今日は大変だったね」
「あ,うん,そだね」
「お昼食べた?」
「大丈夫。いらないかな」
返事がそっけないのは通常運転だが,いつもに増して感情がこもっていない返事だった。
「さっきのことは気にする必要ないって! 元気だしていこう!」
なぎさから返事はなかった。

 

少しの間が空く。

 

もう一度,杏奈から話しかけてみる。
「…ねぇなぎさ,最近,疲れてない?」
「別に。ちょっと寝不足なだけ」
「それならいいんだけど…。なんかイライラしてたりする?」
「別に。自分にイライラしてるだけ」
なぎさは小さくため息をつくと,席を立って冷蔵庫の前まで歩いていった。
冷蔵庫を開けるなぎさの背中に向かって,杏奈が話を続ける。
「イライラする必要なんてないよ! なぎさは大丈夫。頭いいし,器用だし,仕事早いし!」

 

また,少しの間が空く。

 

顔を伏せたまま,なぎさが口を開く。
「杏奈にはわかんないよね」
「え?」
「杏奈は人付き合いも上手で,愛されキャラで,みんなに必要とされてる」

 

なぎさが振り返る。
まばたきをぐっとこらえながら杏奈を見つめ,語気を強めて声を出す。
「私はどれだけ頑張っても報われなかった! 研修先にも患者にも拒否られて…。私の居場所はどこにもないの!」
「なぎさ…」

 

杏奈が立ち上がるより先に,なぎさが研修医室を出ていった。
普段の癒しの場が,不快な静寂で満たされていた。
「必要とされてる,か…」
杏奈はつぶやきながら,静かに冷蔵庫のドアを閉めた。

 

なぎさは病院の廊下を速足で歩いていた。人目を避けるようにできるだけ暗い道を選んで無我夢中で歩いた。最終的に突き当たったのは,杏奈に教わった中庭の扉だった。少しの間キーロック画面を見つめていたが,小さくため息をついたのちに暗証番号を入力して中庭に出た。
ベンチは空いていた。自動販売機に目をやる。
「(そういえば朝から何も飲んでないや…)」
白衣のポケットに手をやるが,財布が入っていない。力なくベンチに腰掛けた。

 

「おっと,サボっているところを研修医に見られてしまったかぁ」
木の陰から思いがけず聞こえた声に,なぎさは小さく飛び上がってしまった。
飛鳥がひょっこり顔を出した。なぎさは立ち去ろうと中腰になるが
「まぁまぁ,座って座って。コーヒーおごるからさ」
と手招きしてなだめる飛鳥の勧めを断り切れず,再びベンチに腰掛けた。

 

なぎさは,ばつの悪そうな顔で地面を見つめている。
飛鳥はおかまいなしに話を続ける。
「いやぁ,実はさ,僕が研修医のときもこんな感じの場所があったんだよね。叱られたりうまくいかずに凹んだとき,こっそり来てたんだよ」
なぎさが顔を上げる。
「え,先生にもそんなことがあったんですか?」
「そりゃあるさ。研修医なんて失敗の連続。理不尽の嵐。もっとキラキラ活躍できると思っていたのに,生き抜くだけで精一杯。医者になんかなるんじゃなかったって,毎日本気で悩んだものさ」
「いまの私も,そんな感じです。こんなはずじゃなかった。自分にイライラしてしまって,同期にも八つ当たりして……。最低です」
「そういう日もあるさ。ブラックでいい?」
飛鳥がなぎさにコーヒーを手渡しながら腰掛ける。
「あ,ありがとうございます」
なぎさは受け取ったホットコーヒーの缶を,持て余すかのように両手の間で行ったり来たりさせていた。

 

「ちゃんと夜,寝てる?」
「いえ,あまり…」
コーヒー缶をベンチに置きながらなぎさが答える。
「眠らないと,せっかくの頭脳も働かないよ」
飛鳥が戯けた口調で場を和ませる。
「あの…,先生は,研修生活をどうやって乗り越えたんですか?」
「そうだな…,3つの支えがあったのは大きかったかな。1つ目は愚痴を言える仲間がいたこと,2つ目は目指したいロールモデルがいたこと,そして一番のポイントは」
なぎさが飛鳥を見つめる。
「こうやって,“たまにちょっぴり手を抜くこと”を教えてくれた人の存在,かな」
飛鳥がなぎさをみて少し微笑む。

 

「さて,教育研修センターのみなさんに叱られちゃう前に,僕はそろそろ戻るね。あ,そのコーヒーは口止め料だからね。ここでサボってたなんて言いふらさないように」
「あ,はい,お約束します」
飛鳥は満足そうにうなずくと,すっと立ち上がって扉に向かって歩いていった。
扉のドアノブに手をかけながら,くるっとなぎさのほうに振り返った。

 

「あ,そうそう。なぎささん,前回の当直の振替休暇を取ってなかったでしょ。いまのローテ科の部長先生に聞いたら,今週金曜日はイベントがないから,休むならそこにお願いしたいって言ってたよ。ずっと振替休暇を取らなかった場合,教育研修センターが半強制的に休みを決められるらしくて,事務員さんが今週金曜日を休み候補にしてたよ」
なぎさは,本来は先月中に取るべき振替休暇の存在を思い出した。

 

「ちょうど月曜日も休みだし,4連休になるじゃん。温泉でも行ってきたら?」
「温泉…」
「そうそう。あとはね,これは医師の先輩としてのアドバイス。同期や先輩はね,頼ったらいいんだよ。弱みを見せあえる仲間がいるっていうのは,悪くないもんだよ」
「弱みを見せあえる…」
「じゃあ僕はこれで。よかったら明日にでも教育研修センターに遊びに来てよ,事務員さんがなぎささんに会いたがってたよ。では」
飛鳥は颯爽と去っていった。

 

誰もいない扉に向け,なぎさは深々とお辞儀をした。

(次回へつづく)


杏奈と仲間の青春研修生活を描く「サバレジ」,次回もお楽しみに!
飛鳥の指導で成長する杏奈の様子は天野雅之先生の「臨床現場の仕事術」をチェック!!(毎週水曜日更新)

 

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