第9回 番外編:なぎさの連休


明日宮もなか(Twitter:@monaka_asumiya)


連休初日。なぎさは県南部の小さな温泉宿を目指すことにした。

 

朝一番に宿の女将に電話をし,急いで宿泊の準備を始める。もともと書籍以外の荷物は少なく,準備はあっという間に終わった。電車の時間までまだ余裕がある。こちらに来てから病院と家との往復生活だったなぎさは,試しに駅まで歩いてみることにした。

 

最寄り駅までの10分ほどの道のりは,歴史的な神社仏閣とビルが入り混じっていた。ただ,ビルといっても建築物の高さ制限があるため,地方都市の県庁所在地にしては地味な街並みだった。キャリーバッグが重いうえ,曇天のせいで初夏の湿気が体にまとわりついてきた。

 

1時間ほど電車に乗ると,車窓から見える風景は緑ばかりになった。駅を降りると山がすぐ近くに迫っていた。駅から少し離れたバスターミナルまで,古い町並みを横目に徒歩で移動した。

 

田舎町だというのに,電車を降りてからすでに2台の救急車とすれ違った。数年前,この近くに新しい病院ができた。古くなった3つの急性期病院が統合整理され,新しい急性期病院と2つの慢性期病院に再編されたらしい。サイレンの音が聞こえるたび,思わず体が反応する。なぎさはそれを振り払うように頭を振り,歩みを進めた。

 

バスターミナルに到着し,現金しか使えない自動販売機で水を買った。ベンチに座り,酔い止めを飲む。なぎさは顔をこわばらせながら,ほどなく到着した“日本一長い路線バス”に乗り込んだ。

 

そこから1時間以上が経過した。もう山は見えなかった。というよりも,ずっと山の中を走っているので,ただひたすらに樹木だけが見える単調な景色だった。さらに言えば,なぎさは青白い顔で目を閉じていたので景色を見ることはできなかった。

 

そこからさらに1時間。なぎさの顔色が,これ以上悪くなりようがないほどの土色になったところでバスの旅が終わった。なぎさが歩けるようになるには,バス停のベンチでしばらくの休憩が必要だった。

 

なぎさが到着したのは,美肌の湯として有名な温泉街だった。公衆浴場や民宿が立ち並び,山奥にもかかわらず温泉や星空を求めて多くの観光客がやってくる。目当ての温泉宿はバス停から歩いて5分ほどの位置にあった。キャリーバッグを引きながら慣れた足取りで道を進んでいく。

 

歴史を感じさせる重厚な門構えの温泉宿の前で足を止める。軒先には提灯があるが,まだ火はともっていない。がらがらっと勢いよく扉を開ける。私服で掃除機をかけていた宿の女将が出迎える。

 

「あら,なぎさ,お帰りなさい。思ったより早かったわね」
「お母さん,ただいま」
「こっちに帰ってくるの,久しぶりよね」
「うん。ってかマジで酔った。バス最悪」
なぎさにとって,これが実に10年ぶりの帰省だった。

 

なぎさは中学までこの村に住んでいた。高校からは大阪の進学校に進むため,同じ高校に通う従妹と一緒に叔母夫婦の家で暮らした。山道が苦手ななぎさは帰省を拒み続け,年末年始も親が大阪に会いに来てくれていた。

 

「お父さんたちは?」
「釣りに行った。ほんと掃除くらい手伝ってほしいわ」
「大浴場,使っていい?」
「えー,お客さんが先なんだけど。まぁ,今日はあんたもお客さんみたいなもんだから特別ね。いま溜めてるところだから,30分くらいあとでね。ついでに脱衣所の掃除をしてくれると助かるんだけど」
「はーい」

 

荷物を持って自室のある離れに行く。キャリーバッグを二階まで引き上げ,自室のドアを開ける。部屋にほこりはなく,当時のままに保たれていた。久しぶりに自分の机に座ってみる。大量に並ぶ少女漫画の脇に,中学の卒業文集があった。おもむろに卒業文集を手に取り,パラパラとめくってみる。

 

数ページ進んだところで,階段下から母親の声がした。
「なぎさー,お風呂はいれるわよー」
「はーい」
「脱衣所の掃除が条件だからねー」
「わかってるってー」

 

持参した部屋着を持って階段を下りる。階段下に置かれたタオルを拾い上げ,渡り廊下を歩いていく。なぎさの実家は宿としての規模は大きくはないが,立派な浴場があった。普段は客で賑わっているが,いまはまだ誰もいない。

 

急いで準備を済ませ,入口の扉を開ける。淡い硫黄と檜の香りが充満している。体を洗うと,屋内の湯船には目もくれず屋外へと続く扉を開ける。通路を進んでいくと,心地よいせせらぎが近づいてくる。階段を少し降りると,川のほとりに石造りの露天風呂が現れた。

 

少し熱めの無色の湯に,なぎさは自身の体をゆっくりと沈めた。しばらく浸かっていると,なぎさの顔色もほんのりした桜色に回復した。

 

独り占めした湯船に口元まで浸かり,ゆっくりと息を吐く。生まれては消えていく大小さまざまなあぶくをぼんやりと眺めながら,これまでの人生を振り返る。

 

ずっと負けないように頑張ってきた。医学部時代の大半を図書館で過ごし,テストは常に1番だった。国家試験を乗り越え,ようやく研修医になった。そこからは,真面目なだけではうまくいかない世界だった。

 

毎日が戦いだった。あれ,でも,自分は何と戦ってきたんだろう…。
疾患と? 不条理と? 誰のために? 何のために?

 

ぐるぐると巡る思考を強制的に止め,息継ぎをする。
「(だめだめ,今日は休むために帰ってきたんだ…)」

 

もう一度,湯船の中でゆっくりと息を吐く。頭を空っぽにして,ただただあぶくを眺める。
ふと,さきほど手にした中学の卒業文集の文章が脳裏に浮かぶ。

 

「高校から,都会に出る。この村を離れる。でも,私は負けない。誰よりも勉強して,人の役に立つ仕事に就く。そして,私を育ててくれたこの地域にいつか,恩返しをしたい」

 

「ぷはぁ」
顔を上げ,吐きすぎた空気を取り戻すように必死に息を吸う。
空中に短く息を吐き,視線を落とす。
「いまの私,かっこ悪いな…」

 

あらためて,大きく伸びをしながら肺いっぱいに新鮮な空気を吸い込む。
「はぁ。…受け入れて,頑張るか」
小さく頷いてから立ち上がる。

 

露天風呂の屋根の向こうには,雲一つない青空が広がっていた。


杏奈と仲間の青春研修生活を描く「サバレジ」,次回もお楽しみに!
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