第15回 麻酔科研修
明日宮もなか( X:@monaka_asumiya)
車窓から穏やかな朝日が降り注ぐ電車内。なぎさは横長の座席の一番端に腰掛け,静かに参考書を広げていた。高校生たちの登校時間を避けるため,少し早めの電車に乗るのが今月の習慣だ。静かな車内に優しく響くアナウンスが目的地を告げると,なぎさは折り目と書き込みでボロボロになった『麻酔科レジデントマニュアル』に栞を挟み,参考書の詰まったハンドバッグの隙間に滑り込ませた。
今月,なぎさは北部医療センターを離れて平城医大附属病院での麻酔科研修を行っていた。麻酔科は北部医療センターにもあるものの,なぎさは手術件数が豊富でICUも整備されている大学病院での麻酔科研修を選択した。
最寄り駅から大学病院までは徒歩で10分程度の距離だ。駅前の繁華街を抜け,整備されていない狭い道を行く。なぎさは歩きながら,先日2週間ぶりに北部医療センターに帰ったときの杏奈との会話を思い出していた。
「ねぇなぎさ,医大はどう? 忙しい? スタッフが厳しくて後悔してるんじゃない?」
「あー,うん,でもいろいろ経験できて勉強になってるよ」
ちょうど同じ時期,杏奈も北部医療センターでの麻酔科研修を選択していた。
「外病院を選んだ同期のせいで,私は毎日,一人で,術後回診させられています」
「いいじゃん,たくさん学べる」
「いやいや,なぎさがこの時期に麻酔科選ぶって言ったから,私もこの時期にあえて選んだのに。優秀な同期がいてくれたら,90%以上の確率で楽できると思ったのになぁ」
「予想が外れたね」
せっかく症例数が“減らせる”と思っていた杏奈は,予想が外れてやや不満そうだった。
「手術室って病棟と全然違うじゃん。不慣れなことばかりで何すべきか全然わかんない」
「遠くからだと術野も全然見えないしね」
なぎさが相槌を打つ。
「そう! いま何が起きているか全然わかんないから,次の段取りもできない。まぁ,そのなかでもできることを探すんだけどね。はぁ,来週でようやく終わる。月曜日,そっちはどんなオペなの?」
「週明け一発目は,心臓血管外科」
「うわぁ,心外! 私,心外とか無理だなぁ。手術中,心臓止まってるんでしょ? 動き出さなかったらどうしようって思うと,外から見てるだけでもゾワッとする」
――今日は月曜日。なぎさがその手術の麻酔を担当する日だった。
必死にカウントダウンしている杏奈と違い,なぎさは麻酔科研修に満足していた。毎日忙しかったが,多くの手技の機会に恵まれた。なぎさは手先が器用で,手術室でも重宝された。挿管手技も難なくこなし,ルートキープから腰椎穿刺までほぼ1発で決めていた。
麻酔科入局の熱心なお誘いもいただいていたが,なぎさは決めきれなかった。以前のなぎさなら,手技や処置に専念できるこの環境に何の躊躇もなく飛び込んだだろう。ただ最近は,ERでの臨床推論や病棟での患者との地道な対話の積み重ねをする毎日が,何となく“捨てがたく”感じられていた。
(それなら,この最後の一週間は,より気合を入れて学び切らなければ…)
病院に向かう歩みは,自然と速くなった。
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病院に着いたなぎさは手早く準備を済ませると,上級医とともに手術室に向かった。最も広い手術室①では,早くから臨床工学技士もスタンバイし,いつになくピリピリした空気が漂っていた。人工呼吸器や挿管の準備を済ませ,朝のショートミーティングに参加した。
朝9時,予定通りに入室開始。患者を入口まで迎えに行き,一緒に手術室に入る。
上級医や執刀医から患者への説明ののち,順番に薬液が入る。麻酔がかかり,呼吸が止まる。
マスク換気する自分も思わず息が苦しくなる。バイタルを確認し,患者の口を優しく開く。ビデオ喉頭鏡を滑り込ませ,柔らかく持ち上げて喉頭展開。声門を正面視。滑らかに,チューブを滑り込ませた。
緊張したが,普段通りにテンポよく気管挿管を実施でき,なぎさはほっと胸をなでおろした。
そうこうしているうちに体位の調整や術野の消毒が始まり,手洗いを終えて手術着に着替えた心臓血管外科医たちが集まりだした。手術室では外科医の名札は見えない。外部から来た人間にとって,手術着をまとった外科医を峻別するのは至難のわざだ。
そのなかで一番背の高い医師が,よく響く落ち着いた声で話しかけてきた。
「麻酔担当ありがとう。見ない顔だね」
アイガード越しでも鋭い眼光が感じられる。
「あ,北部医療センターから研修医が来てるんです」
上級医が答え,なぎさに挨拶を促す。
「湯之原なぎさです,よろしくお願いします」
「1年目?」
外科医がゆっくりと発音した。話し方だけで相手の職位が高いことがわかる。
「いえ,2年目です。たすき掛けで,4月から北部でお世話になってます」
「そうか,2年目か。どうぞ,よろしく」
声は穏やかだが,目は笑っていない。一瞥をくれると,外科医は別の方向へ歩いて行った。
「あれ,心外の教授。みんな“皇帝”って呼んでる。コワいよね」
上級医が小声で教えてくれた。
その場に残った圧力の余韻に,なぎさは居心地の悪さを感じていた。
(いかにも大学の教授って感じ。何が“よろしく”なんだろう…)
やっぱり,大学は怖いところかもしれない。
なぎさは北部医療センターが急に恋しくなった。
杏奈と仲間の青春研修生活を描く「サバレジ」,次回もお楽しみに!
飛鳥の指導で成長する杏奈の様子は天野雅之先生の「臨床現場の仕事術」をチェック!!(水曜日更新)
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